弥来成真の世界

瞑想(Meditation)小説。世界の奥へと誘います。

活動

作品1「夜明け前の神秘」

その晩の夜空は、恐ろしいまでに雲が美しく見えた。これは見ないと勿体ないと直ぐにでも誰かに伝えたいと思うほどだった。ここ数日で急に寒くなってきていた。そういえば、朝、通勤時にジャケット一枚羽織っただけで外出するのは、ちょっと厳しいかな、と思ったっけな。この寒さが、そう思わせたのか、外気は妙に冴えているようで、夜空に棚引いている雲模様が鮮明に見て取れた。今宵の月はどこに出ているのだろうか。雲は雲で妙に速く流れていた。そして、雲以外はまるで静止しているかのようだ。都心の住宅街だけに、いつもだったらこんな夜更けでもそれなりに人通りはあるのだが、人っ子一人見かけない。 あれ?、、、行き先を見ると、帰途ちょくちょく立ち寄る居酒屋の辺りが真っ暗ではないか。まさか、休みなのか?おいおい、金曜の夜なのにそれはないよな。今週は残業続きだったし、このこぢんまりとしたお店のカウンターでマスターやママさんに愚痴でも聞いてもらいながら呑んでうさでも晴らそうというつもりだったのに。何だか突き放されたような感じがして、心底がっくりしてしまった。チェーン店もいいから駅前の居酒屋で一杯やってくればよかったな。まあ仕方ない。誰も待っている人がいない独身男子としては、このまま帰りたくない。とにかく、駅前の明かりと喧噪に引き返して、その中に紛れ込むこと以外に救いを見いだせなかった私は、くるりと踵を返すと、駅前の居酒屋のカウンターで酒やつまみを前にしてくつろいでいる自分のイメージに鼓舞されたかのように、つきさっきとぼとぼと歩いてきた道を足取りも軽やかに辿り直し始めた。大通りの夜光が路地裏に差し込んでいる辺りにはもうちょっというところで、私の視野の左の方に紅い灯火が、ふっと入って消えていったような気がした。 (つづく)【2013/09/06記】 

思わず振り返ったが、何も変わった様子はない。しかし、紅い灯火が、どうも気になる。まさか、人魂か。いやいや。びびる事はない。人魂ってのは、青白いと相場が決まっている。紅い灯火を感じた方向に注意を向けて、目を凝らしながら二歩三歩とゆっくり進んでいくと、塀が一旦途切れた形になっていて、細いが奥深さを感じさせる隙間がぼんやりと見えてきた。よくよく見てみると、それは、右奥へ誘うかのような路地の入り口であったのだと分かってきた。 この近辺に引っ越して、もうじき一年近く経つというのに、こんな所にこんな路地があるなんて、今の今まで気がつかなかった。それも、今歩いてきたこの道は、毎日のように通勤や休日の外出のときに使っているというのに、なぜ路地に気付かなかったのだろう。不思議なこともあるものだな。まさか、錯覚だなんてことはないよな。私は、胸にわだかまり始めた宙ぶらりんな感じを払うかのように、半身を少しよじりながらその路地の閾(しきい)を右足で一歩跨いで覗き込んだ。 ああ、あれだったのか。路地幅は、大人二人が難なくすれ違うことが出来る程度で、横丁がまっすぐ向こうの方まで伸びていたが、少し入ったところで、もう一筋、左斜めに細い路が通じていた。その路地が丁度二手に分かれる手前の辺りに赤提灯が煌々として店先にぶら下がっていたのだ。ああ、あの提灯だったのか。 (つづく)【2013/09/10記】

飲み屋街でよく見かけるタイプの赤提灯。おっと、こんなところに居酒屋があったなんて。それもなかなか乙な店にちがいない。行きつけの居酒屋が今日休みだったのも、私をこうしてこのお店に気付かせるためだったような気がしてならない。まさに帰り際に使え勝手のよい飲み屋さんだ。こんなお店がひょんな形で見つかって、私は早くも小躍りしたいくらいだった。 提灯はかなりの年季物で、全体的に痛んでいたが、特に正面から見て右底辺りの破れ具合が酷かった。しかし、野太い筆書体で「やきとり」と書かれていることに違いはない。ドアは縦長格子の木枠の引き戸で、これまた年季が入っていた。おまけに今どきは余り見かけなくなった縄のれんときている。引き戸の粗めの磨りガラス越しに白熱灯に特有の暖炉のような明かりが店内を柔らかく照らしているのが見て取れたが、中の詳しい様子は窺い知ることはできなかった。 いま、混み合っているのかな。店のおやじはどんな風貌をしていのだろう。客の年齢層は高いだろうな。ここで若い女性とお知り合いになるようなことは期待しない方がいいだろう。いや、住宅街にぽつんとある飲み屋だけに意外と近所に住んでいる酒好きの女性が常連さんになっていないとも限らないぞ。焼き鳥にモツ煮、ほかにどんなメニューがあるのか。お通しなんかが結構凝っているというか、かなり旨いと嬉しいな。ビールは間違いなく瓶ビール。それも大瓶しかない類の店かもしれない。まあ、本醸造の燗酒が飲めれば何の文句もないが。それに話し上手のママさんもいるかもしれない。私は、ほんの一瞬の間で以上のようなことに思いを巡らせながら、目の前にはどんな光景が広がってくるのだろうと初めてのお店に入るときにいつも感じる独特の心地よい緊張感をもって店の引き戸に手を掛けた。 (つづく)【2013/09/12記】

おっとっと。いかにも建てつけにガタがきていると決め付けていたが、予想していた以上に引き戸の滑り具合はよく、少しずつ静かに開けるつもりが、かなり勢いよく一気に全開してしまい、叩きつけるような音を出してしまった。討ち入りでもガサ入れでもあるまいし、何とも無粋極まりない。お店のご主人もお客さんもこんな夜遅くに何事かとびっくりしてしまったに違いない。 ん?客は一人もいなかった。そして、カウンターの向こうで「いらっしゃい」と威勢良く声を掛けてくれるはずの店のオヤジさんも見当たらなかった。そう、店はもぬけの殻だった。 目の前の8席ほどのカウンター。入って右奥には、薄暗くてはっきりとはしなかったが、小上がりがあるようだ。私は、背後で引き戸を半分閉めかけたまま突っ立っていた。人の気配を感知することは全くできない。店のオヤジさん、いやママさんかもしれないが、店の人はトイレにでも行っているのだろうか。板張り木目のカウンターは埃一つなくきれいに拭き取られている。もしかしたら開店直後で、こんな時間に客がくることなんて滅多にないために、店の人は油断してちょっと不在にしているだけかもしれない。いずれにしても、私が今晩最初の客と考えられる。おっと、これはいけない。寒い寒い。冷たい外気が店内をどんどん冷やしていく。私は引き戸を力加減に気をつけながら素早く閉めると、カウンターに左二席空けて陣取った。 (つづく)【2013/09/17記】 「すみませーん」と店の奥の方に呼びかけてみるが、何の反応もない。「すみませーん」自分の存在を知らせようとするが、これまた何の手応えもなく、店内は静まりかえったままだ。誰でもいいから店に入ってきてくれないだろうか。どうするか。店主と顔見知りの常連客ならともかく、私のような一見客が、一人きりで店内に余り長い時間いるのは何かとよろしくないという気がしてきたぞ。大体だな、そもそもどんな野郎がやっている店なのかも分からないし、場合によっては、変な言いがかりをつけられるかもしれない。やっかいだ。ひょっとしたら、暴漢か強盗か知らぬが、何者かが、突然、闖入してくるかもしれないし、既に、その闖入者により事はなされてしまった後かもしれない。あたかも、そんなことは何一つ起こりはしなかったと言わんがばかりに、全ての痕跡を消し去っていった。いいや……カウンター台の向こうの床の上には、店主の撲殺体が転がっている……まさか。心配しすぎか。 とにかく、よからぬ事件に巻き込まれるのだけはまっぴら御免だ。そう私が腰を上げ掛けたその時であった。右奥にあるあの小上がりらしき薄暗い闇の中で、何かがうごめいていたのだ。それは、ゆっくりとゆっくりと、電灯に照らされているこちら側の方に近づいてきていると分かる。私は、身じろぎひとつしないで、全身を硬直させたまま、その何かが目の前に出現する瞬間に備えた。 (つづく)【2013/09/20記】

すると、こぶし大の立体物が、暗闇からうっすらと浮かび上がってきた。顔? 猫の顔だ。黒猫の顔だ。ぱっちりとした両眼は、イエローサファイアのような深みのある光沢を帯びていた。こちらをじっと眺めている。黒猫の顔といっても、額から顎にかけての楕円形の輪郭部分のみが暗闇から浮かんできているだけで、両耳は闇の中に沈み込んだままで見えない。口髭が妙に艶っぽい。黒猫は、私と視線が合うと右目でウィンクをした。それもゆっくりと。そして、ゆっくりと後ずさりしていき、再び暗闇の中に隠れてしまった。ウィンクなんかされて正直どぎまぎとしてしまった。こんな艶っぽいウィンクは、人間の女性にはされたことがなかったっけ。黒猫ちゃんは、この店のアイドル的存在なのだろう。また、直ぐに顔を見せてくれだろうか。今度は、全身を見せてくれるかもしれない。私は、特に猫好きという訳ではなかった筈だが、この黒猫ちゃんに惹かれてしまい、黒猫が潜んでいる暗闇の一角を中の様子を探るように見ていた。 こんな風に猫を大切に飼っているのだから、店主は、そうも悪い人間ではないだろうと安堵してしまう程、単純な私ではないのだが、つきさっきまでは、あれこれとよからぬ事を考えて不安になり、一刻も早くこの店を出ようと上げかけた腰を現にこうして落ち着かせてしまっているではないか。(つづく) 【2013/09/25記】

黒猫ちゃんは姿を見せてくれるだろうか。その土地の言い伝えのみを頼りにして、闇夜、山間の湖にただ一人小舟を浮かべ、月光の下で霊験あらかたな幻の怪魚の出現を湖面を見つめてじっと待っているような気分だ。まあ、そんなことはしたことはないが。こういう場合は、あまりお目当てのものに気持ちを集中しすぎない方がいいのかもしれない。それにしても静かだな。 「お飲物の方は、、、」何の前触れもなく、私の耳元で女性の声が響いた。びくっとして反射的に振り返るとカウンター向こうにかなりご年配の女性が一人立っていて、こちらを見ていた。いつの間にどうやって戻ったのだろうか。まさにしゃっくりを止めるために、故意に背後から突然、わっ!と声を掛けられたとしたらこんな感じなのだろう。私は、何か言おうとしたが、声が出てこない。あーびっくりした、とかすんなり言うことができたらどんなに楽だったろうか。 このかなりのご年配と思しき女性は、少なくとも私の祖母と同世代といったところか。小柄で痩せ気味ではあったが、背筋がすきっと伸びた割烹着姿は、まさに板に付いていた。表情にも余裕が感じられ、それは、初見の客の扱いには慣れていることを物語っていた。私が無人の店に勝手に入り込み、一人で席について待っていたことを特に気に留めているようではないし、突然のこの店の女将の出現にびくついた私もだんだんと落ち着きを取り戻し始めた。(つづく) 【2013/09/27記】

「お飲物の方はどうなさいますか?」 カウンターの上にはメニューらしきものはない。目の届く範囲にも、メニューの貼り紙やホワイトボードといった類のものはなかった。まあ、場所柄や女将さんの様子から判断して、法外にボったくることはないだろう。年季の入った赤提灯の焼鳥屋で、いちいち値段を確かめなければ注文できないなんて野暮なことはしたくないし。こういう初めの印象ってのが肝心なんだから。 「ビールをお願いします」とさらりと言うことが出来た。ようやく飲み屋でのいつもの感じになってきてくれた。何てったって、私はお店にとって大切なお客様なのだから。おっと、ビールはやはり大瓶ときたか。それも、私も好きな銘柄ではないか。おっと、お通しはポテトサラダではないか。見るからに自家製だ。ビールをコップ一杯喉に流し込む。ふうっ。ポテトサラダをちょいとつまむ。実に旨い。私好みの家庭的な味だ。よく「お袋の味」というのを売りにしているお店を見かけるが、なかなかこうもしっくりとした出来栄えにはならないものだ。こういう定番料理に限って、妙にプロ感覚を出そうとして台無しになっている店は少なくない。また、家庭的な味と言ったって、実際はそれぞれの家々で味付けが違う訳だから、こういう感じの押し付けがましくない味は、絶妙なバランス感覚をもってして初めて実現できるものなのだ。さてさて、早速、看板メニューというか、メインの焼き鳥でも頂くことにするか。 「えーっと、ママさん。焼き鳥で~、とりあえず、レバとハツと手羽を塩でお願いします」すると、穏やかだった女将さんの表情が一変し、顔がみるみるこわばっていった。えっ?女将さんは目を細めて、あらぬ方を見つめたまま、一言も発しないでいる。口にしてはいけないことを口走ってしまった時に感じる何とも嫌な緊張感。(つづく) 【2013/10/02記】

店内には私と女将さんのたった二人しかいなかったが、たった二人しかいなかったからこそ、店内の雰囲気が、つい今しがた私が感じ始めていたくつろいだものから張りつめたものへと一気に反転してしまった。う~ん、どうしたものか。女将さんは、あらぬ方に目を向けたままだ。私の不用意な発言が女将さんのこの態度の激変をもたらしたのだろうか。それとも、私の発言のタイミングがたまたまそうだっただけで、全く別の何事かが女将さんの心身に影響していたのかもしれない。いや待てよ、もしかしたら、女将さんは何かの持病持ちで、今まさに私の目前でその発作が起こっているのではないのか。この痙攣じみた症状は何であろうか。しかし、なぜだか女将さんの表情から、この顔のこわばりは肉体的な苦痛の現れであるというよりは、精神的なものに由来しているのではないかと思えてならなかった。少々不安ではあったが、ここは様子を見た方がいいだろう。こんなに顔がこわばって何事かに心を奪われている最中の人にこちらの都合を優先して声をかけて無理矢理に意識をこちら側に引き込もうものなら、思いがけない反発や激情を引き起こしかねない。幸い、ビールとお通しのポテトサラダは、ちびちびやれば、事態の成り行きをある程度は見極めるのには十分手元に残っているのだ。 どれくらい時間が経過しただろうか。さすがにビールもポテトサラダも底をつき始めたきた。とその時、女将さんはふとしたはずみで憑き物がとれたように柔和な顔を取り戻したのだ。まさに我に還ったという様子。(つづく) 【2013/10/08記】

顔をこわばらせたまま無言で暫く突っ立っていた空白の時間などまるでなかったかのように女将さんは「焼き鳥はもうやってないんです」と会話をし始めた。焼き鳥はやってないって、、、私はさぞかしポカンとした顔をしていたのだろう、女将さんは、私を覚醒させるために訴えかけるように語り始めた。 「焼き鳥は、もうこの店ではやっていないんです。何年前になりますでしょうかね。私の主人がいた頃はやっていたんですよ。そうなんですよ。主人が焼いていたんです。この店も開いてから五十年は経つんですよ。びっくりしました。お客さん、まだ生まれてませんよね。うちの主人は、お客さんが生まれる前から、ここで鳥串を打って、炭をおこして、塩ふって、たれつけて、焼いていたんですよ。そしてね、お客さんが生まれたその日の晩もね、焼いていたんですよ。お客さんにとって、幼稚園のすべり台や砂場やギャングルジムが世界の全てだった時も、小学校に入ってからは、お客さんはランドセルを六年間毎日背負い続けてきたのかもしれないけれど、主人はその間も、ずっと毎日焼き鳥を焼いてきたんですよ。お客さんが中学生、高校生とすくすくと育ち、こうして立派な大人に成長してきた年月も、主人はね、ずーっとここで串を打って焼き続けてきたんですよ。お客さん、ご存じですかね。俗に『串打ち三年、焼き一生』なんていう言葉を。まあ、うなぎ業界では『串打ち三年、裂き八年、焼き一生』というらしいですけど、さすがに主人がいなくなってから、おばあちゃんの私にこれから串打ちを身につけろだなんて、悪名高きベニスの商人だってそんなことを強要しなかったでしょう。あるいは、あのかぐや姫だったらしれっと涼しい顔をして『ばあや、ばあやの手作りの焼き鳥を食してみたいのじゃ』とかなんとか言ってきたかもしれないけれど、やはり、いささか酷じゃ~ありませんか。(つづく) 【2013/10/16記】

(女将さんの語りは続く) 「それに万が一にでも串打ちが出来たとしても、タレをどうしろというつもりなんでしょう。まあ、お客さんは「塩で・・・」と言って下さったからよかったものの、それというのも主人が使っていた塩がどこで誰が作っていたものなのかは承知していますので、塩焼きは、見よう見まねで何とかなるかもしれないという一縷の希望もないとは言い切れないと言っても差し支えはないとは思うんですが、「タレで・・・」となると本格的に修業をつんだうえでなければ、焼鳥屋の商品としてお客様にご提供出来る串なぞ焼ける訳がありません。そうです。全くもって誤魔化しがきかない領域なんですよ。そもそもどうやって主人のあのタレを再現しろとおっしゃるんでしょうか。私がそういうことにお構いなしにタレ焼きを提供し続けたら、それこそ、主人を裏切ることになってしまうでしょうに」こう言うと女将さんは、ご主人との思い出が胸に迫ってきたためなのか、自分がもし焼き鳥を作らなければならなくなったら、それがいかに理不尽で辛いことなのかについて感じ入ってしまったのか、それとも単に加齢により涙腺が緩んでしまっただけなのか、目頭の辺りに滲み出てきた涙を布巾で拭った。と同時に、焼き鳥をこの店ではもう出せない事情について一通り伝えることができたことにほっとしたのか、またあらぬ方を見て一息ついているようだ。 つい先程、レバ・ハツ・テバと発声した私の口の中には、レバ・ハツ・テバという音の余韻に呼び覚まされたように唾液がじわりと出てきていたが、私はその余韻を揉み消すように唾を飲み込んだ。そういうことなら仕方ない。今晩はひとまず焼き鳥は諦めるしかあるまい。焼き鳥のような特殊な技能を要求されるものならともかく、お通しのポテトサラダから察するに、湯豆腐やら焼き魚やら卵焼きやら、小料理屋の定番なら用意してくれるだろう。この際、まあ、何でもいいんだが、注文した品が、またまたこちらの思いも寄らない事情で作ることができないとなると、またまた一層、私も女将さんも気まずい思いをしなければならなくなってしまう。さて、どうするか。(つづく) 【2013/10/23記】

この場の料理については、女将さんに委ねた方がよさそうだ。「えーっと、ママさん、そんじゃーおつまみは何か適当に頂けませんか」私はこう言いながらも、知らず知らずのうちに相手がどんな反応をするのだろうかと病的な程、気になっていたようで自らがビクつき始めきていることを感じていた。女将さんがカウンター向こうの調理台に身をかがめた仕草からして何かの支度をしていることが窺われた。やはり、私のためのつまみを作り始めているのだろうか。しかし、包丁で何かを刻んでいるようでもないし、何かを調理している風にも、あるいは予め仕込んでおいた品を小皿に盛りつけている風にも見えない。黙々と一体何をしているのか。そもそも先程私が言ったこと、つまみを頼んだことが耳に入ったのだろうか。空になったビール瓶とお通しの小皿をカウンター台に上げるなどして女将さんとの会話のきっかけを掴もうかと思案していると、女将さんは顔を上げると新聞紙を四つ折りにしたくらいの大きさの白い紙を私に差し出してきた。手にとって見てみると黒いマジックペンで何行か書き付けてある。達筆といっていい文字面。おっと、これはたった今、即席で作ったメニューではないか。   

お品書き  

青梗菜とベーコンの炒め物 青梗菜と厚揚げの炒め物  青梗菜とイカの炒め物  青梗菜とツナマヨの炒め物  チンゲン菜とお好み食材の中華風煮込み

要するに今日は青梗菜しか客に出せる食材がないということか。しかし最後のひとつだけ「青梗菜」が「チンゲン菜」とカタカナになっているのは何か意味があるのか。まあ、これは直前の「ツナマヨ」を書いた流れでカタカナになってしまっただけということか、いずれにしてもさすがにこれはご愛嬌として拘らない方がよさそうだ。それにしても最後の中華風というのがいかにもとってつけたような感じがして笑わせる、というか憐れみを誘うではないか。おまけにお好み食材ときているし。推し量るに最初の4つのメニューの食材をつかって中華風にするということか。いやまてよ。チンゲン菜ってのは、そもそも中国原産の野菜ではなかったか。中華の食材を中華風にするって、、、いやいや、折角、私のリクエストに応えて咄嗟に知恵を絞ってお品書きまで用意してくれたのだから、こんな余計なちゃかしはしてはいけないな。そうそう、お通しのポテトサラダの出来栄えを忘れてはいけない。むしろこれらのチンゲン菜料理は大いに期待すべきものかもしれない。 「ママさん、この中華風というのをお願いします」と頼むと「チンゲン菜は美味しいですからね。お客さん厚揚げは苦手ですか?」と返ってきた。 「厚揚げ?厚揚げは好きですよ。厚揚げ焼きなんかをつまみにしてよく酒を飲んでますし」 「そうですか。それなら今日のおすすめはチンゲン菜と厚揚げの炒め物なんですが、どうなさいますか」やはり中華風煮込みはお品書きの見映えを少しでもよくしようとするための何の裏付けもない付け足しメニューだったということか。(つづく) 【2014/01/08記】

いきなり肩すかしを食らってしまい、どう返答しようかと一瞬私が戸惑っていると「このチンゲン菜は埼玉県産のとても鮮度が高いものなんですよ。チンゲン菜ってベータカロチンが豊富なんですってね。ご存じでした?今日のチンゲン菜は瑞々しくってしゃきしゃきした感じは厚揚げとよく合うと思いますよ。ほんとに」「それじゃ~、それを」と唯々女将さんに言われるがまま、中華風煮込みに特段の思い入れがある筈もなく注文した。「あと、お酒をお燗でお願いします」「徳利は小さい方にします?それとも、、、」「大きい方で」おっと、お燗はてっきりチン燗、レンジでチンするのかと思いきや、わざわざ湯煎してくれるのか。女将さんは冷蔵庫、業務用とはとても見えない少し大きめの年季の入った家庭用の冷蔵庫からチンゲン菜と厚揚げを取り出すと手際よく調理に取りかかった。小気味よい包丁がまな板にたてる音、軽快にフライパンで炒める音とともに出汁のきいた匂いが漂ってくる。程なくまさにおすすめと言うべきチンゲン菜と厚揚げの炒め物が出来上がった。それに丁度いいタイミングで丁度いいつけ具合で燗酒も出てくる。是非ともご主人がご健在の時に来てみたかったな、などと思いながら飲み始める。「お客さん、随分とおいしそうに飲みますね」「いや~、実際おいしいですからね」と私は出来たてのチンゲン菜と厚揚げの炒め物をつつきながら燗酒をぐい飲みでぐびりとあける。 「お客さん、本当にお酒好きって感じが出てますよ。いい飲みっぷりだこと」 「いや~、よくそう言われます」 飲み屋で交わされるいつものお決まりの台詞のやりとり。私は飲み屋のマスターやママさんらとこのような型にはまった一連の台詞のやりとりを何度繰り返して来たことだろうか。まるでそれは伝統的な儀式を忠実に執り行っているかのようでもある。そしてどういう訳かこの儀式に則らなければ飲み屋での飲み食いを滑らかに進めることができなくなってしまっているほどに、この儀式は飲み屋の空間にいるもの達の心身に染みついてしまっている。(つづく)【2014/01/09記】

 

(なんとまあ、二年半以上も更新をサボってしまった・・・苦笑。ようやく再開です。)

現に今こうして、女将と私という初対面の二人でも示し合わせたかのようにこの儀式をよどみなく行っていることからして、私がいま経験していることは、あらゆる酒場で繰り返し行われていることなのだろう。こうした飲み屋でカウンター越しの何の変哲も無いやりとりができるというがなければ、世の中きっと具合が悪くなってしまうはずだ。
そうこうしているうちに、私の酒杯はぐびぐびと進んでいく。女将は、こんな私のあり様を見ながら、私の心の内をお見通しでいるかのような絶妙なタイミングで次のつまみの調理にとりかかり始めた。このお店は再訪間違いなしだな、と思い、ぐびぐび。私は、何だかここが初めて来たお店であることも忘れてしまったように、というよりむしろ、端から見たら少なくとも数年来の常連さんであるかのようにリラックスしてきたようだ。そこに、女将さんが出来たての二品目のつまみをぽんと置いてくれる。おおっ、なんと、イカの肝ホイル焼きではないか!目の前にもやもやと立ち上がってくる湯気とともにイカの肝の香りが私の体の酒飲み中枢、そんなものは現代医学では認められていないが、その酒飲み中枢を刺激してくる。
「すみません。これ、もう一本」と空になった大徳利を女将に差し出すと「ありがとうございます。お客さん、お強いんですね」「いやいや、滅法酒には弱いんですよ。どうしてもお酒となると断れないという意味でね。ははは・・・」とまあ、またまた何度交わしたかわからない台詞のやりとりがスムーズに進んでいく。
「お燗の頃合いもいい感じですね。私は、燗はやっぱりぬる燗好きなもので」と言いかけたところで、私の背中の真後ろで店の引き戸がガラガラと開けられる音がした。思わず振り向くと、年増でちょっと化粧が濃いめの小太りな女性が一人、私を見て少し驚いた顔をして立っていた。
(つづく)【2016/10/17update】

その驚きは明らかに私に向けられたものであり、つまりは、見知らぬ人物がこんな時間にこの店のカウンターに座っているなんて、それもその人物が自分から見たら孫の世代なのでは!と見てとったようであったが、この老女は、すぐに私から目をそらすと心の乱れなど全くないように平静さを取り繕って、女将に話しかけようとしている。というより、女将に話しかけることによって平静さを取り戻そうとしているようだったが、一言も発することなく、私の後ろを通り過ぎると、奥のカウンターの上にかなりかさばっているスーパーのレジ袋のような白いビニール袋をどさりと置いた。よく見るとやはりそれはスーパーのレジ袋で、私もちょくちょく立ち寄るスーパーのマークが印字されていたが、中には様々な生鮮食材が入っているようだった。女将は、この同世代の女性に「いらっしゃい」とも「こんばんは」とも「おしさしぶり」とも何ら言葉をかけずに一瞥をくれると、私が注文したお燗のつけ具合を確かめながら調理場を整理している。この様子から見て、女将とたった今入ってきた老女は知り合いであると、それもかなり親密な間柄であると察せられた。
夜遅く買い物帰りに飲み屋に立ち寄るとは、私もしたことはあったが、それにしても、この老女のように生鮮品を大きめのレジ袋一杯に詰め込んで持ってきた客は初めて見た。立っている様子からして、酔った勢いの成り行きで入ってきた訳ではなさそうだし、一体どういう了見でお店に入ってきたのだろうかと思いながら、私がほろ酔い顔で老女を見ていると、「いらっしゃいませ。ごゆっくりどうぞ」と満面の笑みを浮かべて私に声をかけてきたのだ。えっ?これではまるでこの老女はお店の人ではないか。てすると、もしや、女将の家族か親戚か、まさか、ここで鶏串を焼いていた亡くなった女将の旦那さんの妹だったりして、いやいやそんなことはないだろうが、単なる常連客という訳ではなく、このお店とかなり関わりのある人物であると考えれば、目の前にレジ袋がずしりと置かれていることも不思議ではないと言うことになる。なんてことを思い浮かべながら、私がレジ袋をぼんやりと眺めていると、この女性はレジ袋を持ち上げるとそのまま奥の薄暗がりの中へ消えて行ってしまった。
(つづく)【2016/10/18update】 

 

 

 

作品2「中一女子 アヤコの想い」

sample

クラスで一番の仲良しのミカちゃんは、「ダサい」と言うけれど、アヤコは、毎日着ていく女子中学のセーラー服が気に入っている。特に夏服バージョンが好きだ。真っ白の上着の襟は水色を基調として、ダイヤモンドの形が数珠つながりとなった真っ白のストライプが3本入っている。スカーフだって紺、黄、白色から自由に選べるのだ。スカートは上着の襟と同じ水色で、今度はちょっと濃いめの水色のダイヤモンドのラインが何本もタックに沿って刺繍されている。そして靴下も真っ白だ。シンプルだけど、とってもおしゃれだと思う。誰がデザインしてくれたのだろう。小さい頃、父親とよく遊びに行った近所の海辺の公園を思い出す。もう随分と前に引っ越してしまい、それ以来一度も訪れる機会がなかったけれど、この制服を着て、あの海辺の公園を歩いてみたいと思う。

今日は、秋の連休を利用して、母親の実家のおじーちゃんとおばーちゃんの家に向かっている。隣の席で車を運転している母親はちょっと不機嫌そうだ。いつもこんなもんか。目的地に近づくにつれ、アヤコは、あ~あ、とだんだん憂鬱になってきた。
(つづく)【2013/09/06記】  

母親の実家は、辺り一面、田んぼと畑が広がっている山村地域にあり、緑豊かでとっても気持ちがいい。だだっ広い庭には、いろんな樹木が様々な色と形の葉を広げ、雑草も生い繁っていて、ジャングルちっくで、散歩していると自然と心が躍ってくるのだ。だけど、せっかくの連休なのに、勉強漬けにならなければならないなんて、何という悲劇だろう。学校の成績が悪いことがそんなにいけないことなのだろうか。おじー
ちゃんは、本当に熱心に教えてくれていることは伝わって来るけれども、やたらと声がでかいし、直ぐに興奮してわめくように話すし。母親とそっくりだ。方程式なんて見たくもないよ。なんであんなものがあるのだろう。「あ~あ」、「あ~あ、じゃないでしょ!」アヤコのぼやきを母親が強圧的に封じる。「いつもさぼっているからこうなるんでしょ。このままじゃ赤点確実で進級できなくなっちゃうんだから」あ~あ、、、アヤコは喉から出掛かった溜息を何とか飲み込む。車の中には、数学、理科、英語と言う、おぞましい教材がどっさりと積み込まれている。到着するまでに出来る限りマンガを読んでおこう。
(つづく)【2013/09/09記】

お昼過ぎから、祖父によるアヤコの数学教化特訓が始まってから一時間が経過しようとしていた。アヤコの中学受験の約一年前から仏壇のある一五畳の居間が、特訓部屋として使われていた。机の替わりの座卓には、ホワイトボードが載せられている。昨年の中学受験の特訓をしているときに紙が足りなくなってしまい、困ってしまったことがあったので、祖父が用意しておいたのだ。祖父は、アヤコがホワイトボード上で方程式をいくつか解くと、くたびれた切ったタオルでマジックのインクを素早く拭き取っていく。
XとかYとか、掛けたり、=(イコール)の右にやったり左にやったり、うぅ。もう限界だ。アヤコの携帯電話がメールの着信を告げた。
「じーこ。ちょっとメール見るよ」
ミカからだ。
『どうよ 国語の宿題 意味不 理科 ムカツク 夜空なんて見ないっつーの!』
アヤコの口元が思わずほころぶ。素早く返信する。
「おい。アヤよ。あと三問だから、そしたらちょっと休憩だ」
あと三問もかよ。直ぐにミカから返事がきた。
『ときどきユカのことを殺したくなるよ バカかあいつ』
ミカは何ていい奴なんだとアヤコはつくづく思う。
(つづく)【2013/09/11記】

ようやく休憩だ。ほんともう気がおかしくなるところだったよ。廊下の先のリビングからおばーちゃんが呼んでいるようだ。「アヤちゃん、お腹空いたでしょ。ニンジンが好きだなんて、とってもいいことよ」というと祖母は、テーブルについたアヤコの目の前にこんもりと盛りつけた肉じゃがを置いた。ほかほかと湯気が立ち上がり、肉じゃがの匂いが食卓全体を満たしていった。ほくほくのジャガイモ、煮汁がたんまりと沁みこんでいるニンジン。鍋からよそわれた肉じゃがが母親やおじーちゃんの前にも置かれていく。おばーちゃんがテーブルに置くと、器は不思議とコトリとも音をたてない。蝶がふわりと花に舞い降りる時のようだ。ドアや襖を開けたり閉めたりする時もそうなのだ。襖におばーちゃんの手が掛かり、襖がすーっと敷居の溝の上を滑らかに移動していき、いつの間にか止まっている。おばーちゃんのする動作は、周りを邪魔することなく、紅茶に入れられた砂糖のように辺りにとけ込んでいく。それが、母親だとまるで違う。家の中がガタガタ、ガチャガチャ、ドタンバタンと騒々しいったらありゃしない。全くファミレスやファーストフード店の厨房、いやいや建設作業か道路の工事現場じゃないんだからさ。
「アヤちゃん、ニンジンたくさん食べるといいよ」普段から家で使っている茶碗よりだいぶ大きめのお椀に盛られた肉じゃが。見るからに柔らかく煮込まれたじゃがいもとニンジン。この前食べたのはいつだったけな。スプーンでこんもりすくってもぐもぐと。口の中が出汁で浸されていく。あ~そうだ。この柔らかいおばーちゃんの味付け。おいしい。「アヤちゃん、じゃがいもも人参も莢豌豆もうちの畑で採れたものばかりだよ」とおばーちゃん。「夏休みにアヤちゃんが植え付けたじゃがいもだよ」これが、あの時のやつか!
(つづく)【2013/09/13記】

おじーちゃんに教わりながら、種芋を一つ一つ畑に埋めていったことが思い出される。あの時は、結構暑かったし、疲れたわりにこんなことだけで本当にお芋ができるのだろうかと半信半疑のまま、今の今までじゃがいものことなんか忘れてしまっていたけれど、ちゃんとお芋は育っていたんだ。種芋を植え付けただけであとはな~んにもしなかったけれど、アヤコは、これまでに味わったことのない充実感に満たされていた。今、あの畑は、どうなっているんだろうか。

「あとでお芋掘りにいっていい?」おばーちゃんがにっこりとしてくれたと思ったところ「アヤ、内接円を描いたら、あとは、何をどうするんだっけ?」とおじーちゃんが大きな声で話しかけてきた。「内接円・・・」ついさっきまで廊下の向こうの特訓室で何度も図形を描きながらたたき込まれたはずのこの言葉は、何の実感も感慨も引き起こすことなく、アヤコの意識の表面をあてもなくただただ漂流し続けた。「内接円」という言葉は、じゃがいもやにんじん、芋掘り、カエル、畑、夏休みという言葉とは違い、どこだか知らないが、遙か彼方の遠い世界に住んでいる自分と何の係わり合いもない何者か同士で交わされているようなものにしか感じられなかった。「内接円を描いたら、ほれ、円の中心、何て言ったっけさ」おじーちゃんが畳みかけてくる。「内心。いいか。内接円と内心。さあ、どうすんだっけ?」「ちょっと、あんた。そんなしたら、休憩にならないでしょうに。ゆっくり肉じゃがを食べさせてあげないと」「ちょっとぉ、余計なこと言わないでよ!この子、中間試験で数学が滅茶苦茶だったんだからさぁ!」母親が、おばーちゃんに食ってかかる。「さあほれ、内接円を描いて、内心を付けて、さあほれ、次はどうするんだっけ?」何が、ほれほれだ。ここ掘れワンワン・・・はなさかじいさんの隣に住んでいる欲張りじじぃみたいだ。わたしは、犬じゃないんだからさ。いやになる。掘りたいのは芋なんだよ。
(つづく)【2013/09/17記】

「アヤっ!ちゃんと答えなさい!芋なんて掘ってる場合か!」
わたしは何か悪いことでもしたのだろうか?種芋を植え付けた記憶がぼんやりとしながら遠のいていく。
「さあて、久しぶりに芋掘りでもしてくっかな。楽しいだろうな~」叔父さんは、こう言うと私の顔を見てケタケタ笑いながら、玄関に向かう廊下に出ていった。
何なんだ、あいつ。これみよがしに私の癪に障ることを言ってそんなに楽しいのか。母親の弟の分際のくせして。
アヤコは、幼稚園児だった頃に叔父さん結婚式に参列したことがあった。あの教会はどこにあったのだろうか。いまでもあるのだろうか。叔父さんが随分前に離婚したことをつい最近知った。アヤコが、小学2年生の時だったという。あの教会でウェディングドレスを着ていた女の人を見かけないなぁとずっと不思議な感じがしていたのだ。あの女の人の顔も名前も思い出すことは出来ないが、さっきまでおじーちゃんと勉強していた部屋のソファの上で、確かあの女の人は私に昔話の絵本を読み聞かせてくれたのだ。どんなお話だったか思い出せないけれど、その時の女の人の声の印象が余韻として残っているようだ。それは、柔らかい日射しの温もりを帯びていた。まだ、私の理解力が十分でなかったのかもしれない。懇切丁寧に何回も同じページをいったりきたりしながら、ようやく「めでたし、めでたし」まで辿りついた気がする。おそらく、私のことだから、終わった途端に「もう一回」とおねだりしたに違いない。一体、何のお話だったのだろうか。母親に訊いたら分かるだろうか。おじーちゃんやおばーちゃんじゃ訊いても無駄だろうし、もしかしたら、叔父さんなら知っているかもしれないけれど、やっぱ訊きづらい。いや、ここにいる誰一人として分からないだろうし、あの女の人だって忘れてしまっていることだろう。  
(つづく)【2013/09/19記】

かなり年季の入った薄汚れた長靴を履いて、おじさんが前庭から畑の方へ歩いて行くのがガラスの引き戸越しに見えた。本当に芋を掘ってくるつもりなのだろうか。
「アヤちゃん、ゆっくりお食べ。よく噛んでね。勉強が終わったら畑に行こうね。アヤちゃん用の長靴を出しておくから」とおばーちゃんが言ってくれるのに、「そんな時間があるか!さっさと食べて続きを始めなさい!このままじゃ、進級も危ないってわかってるのか!」間髪入れずに母親の怒鳴り声。おばーちゃんに返事もできやしない。何で母親は、でかい声でしか話さないんだろう。年がら年中、声を張り上げてよくぞ声帯がぶっ壊れないものだ。昔からそうだったんだろうか。これこそ小さい頃からの鍛錬の賜物というものか。後でおじさんに訊いてみよう。これなら訊いても気まずくならないだろうし。

こうして、休憩時間はあっけなく過ぎていった。

つまらない。途轍もなくつまらない。数学って、一体何だ。勉強って何なんだ。如何様にしても感情移入することができない記号の羅列に無理矢理向き合わさせて、意味が飲み込めないまま作業を続けなければならないなんて苦しいだけだ。みんな、我慢しているだけなんじゃないだろうか。どうしても分からない。なぜこんなことをしなければいけないのか。全員狂っているとしか思えない。少なくとも、おじーちゃんは、気が違っている。

アヤコは、数学の練習問題をやっとこさやり終えて、ずっと座卓に伏せていた顔を上げてみると、外はまだまだ明るかったのだが、前庭の空気には夕闇がわずかに滲み込んできているのが感じられた。昨晩自宅では、ちょっと蒸し暑いくらいで寝ながらベッドの上で薄手の掛け布団を蹴ったぐってしまったし、今日朝早くおじーちゃん、おばーちゃんちへ向けて出発したときは、とても上着を羽織る気にはなれなかったが、いまここで、山麓のひんやりとした秋の気配にはっとなった。ああ、あっと言う間に夕闇に包まれてしまう。
(つづく)【2013/09/24記】

「終わったー!」アヤコは、祖父に目配せすると一目散に畑に向かった。叔父さんはまだいるだろうか。相当の芋を掘られてしまっているかもしれない。畑に叔父さんの姿はなかった。いや待てよ、繁みの向こうにしゃがんでいるのかもしれない。芋を掘りに勢い付けて来たはいいが、いざ実際に掘ろうとすると芋畑のどの辺を掘るべきなのか、どこが掘り頃で、どこがまだ芋が十分に大きくなっていないのか皆目検討がつかない。それにだ。スコップとか掘り道具を持ってきていないことに気がついた。ぐるりと見渡しても叔父さんの姿は見えない。叔父さん、どこに行っちゃったんだ?裏の竹林の方かな。でも、あそこは、お墓の側だからいくら叔父さんだってもうじき日が暮れるのに近づきはしないだろう。

嫌で辛くてたまらなかった勉強から解放されて、畑にすっ飛んできたら、叔父さんが芋を掘り出していて、ちょっとアヤにも掘らせてよ、スコップ貸してよ、どの辺がいいの?とか言って、畑にしゃがみ込んで土を掘り起こし、、、と事が運んでいたなら。
アヤコは、ついさっきまで芋を掘るために躍起になっていた行き場のない気持ちを抱えたまま畑の中で一人ポツンと立っていた。はっきりと誰に対してと意識したわけではなかったが、大声を出したい衝動に駆られ、大きく息を吸い込んだまさにその時、向こうの方の川べりの茂みの傍らに佇んでいる叔父さんが目に入った。
何だ、いるんじゃないか。叔父さんは何かを探るような目つきで灌木の黒みがかった葉の端を見ていた。アヤコが近くにいることに全く気付いていないようだった。
「あのさあー」とアヤコが叔父さんに声をかけると、叔父さんはちらっと振り向き、そしてゆっくりと近づいてきた。(つづく)
【2013/09/26記】

叔父さんは、手にしている小さな本をちらちら見ては、頭の中で何かを整理しているような面持ちでアヤコの方に歩を進めてきた。
「何してんの?」
「うっふっふ。ようやく分かったぜ」
「何が?」
「あの木だよ」と叔父さんは、さっきまで近くで観察していた木を指さして「ユズリハ。あの木はユズリハっていう木だったんだよ!ずっと前から気になってたんだよな。ほら」と言って、アヤコに手にしている本を開いて見せた。それは、樹木の種類名前を系統立てて並べている図録なようなもので、なるほど、「ユズリハ」のページに載っている樹形写真と一枚一枚の葉っぱの絵の特徴が、言われてみれば、あの木と同じ種類という感じがした。「杉とか檜とかだったら、分かるんだけどさ、この辺りのほかの木って以外と知らないんだよな」と叔父さんは満足そうにしている。「あとさ、あの木の正体も判明したんだよね」と今度は前庭に生えている木を指しながら「あの木、何の木か知ってる?」と訊いてくる。まあ、どうでもいいだけど、とアヤコは思いながら「知らないよ」「あの木は、マキっていうだよ。あの木が槙だったんだよね」と叔父さんは頷いている。全然興味ないんだけどな、、、そうそう、こんなことしてる場合じゃなかったんだ。
「芋掘れたの?」
「芋?芋なんて掘ってないよ」
なんだとー!?アヤコが絶句して叔父さんを見ていると、叔父さんは「そんなめんどいことをする訳ないじゃんか」とケタケタ笑っている。そうだったよな。この叔父さんってのは、いつもいつもこうやって、取り付く島もないことを言っていたっけ。アヤコには、叔父さんを芋掘りに協力させることはもはや不可能と思われた。(つづく)
【2013/10/01記】

 うぅ、何も言うことが思いつかない。アヤコが黙りこくっていると、「芋を堀りたきゃ、掘んなよ。スコップ?あっちの倉庫にいくつかあるんじゃないのか。それより、その靴、長靴かなんかに履きかえた方がいいよ」と、叔父さんは、意外にもアヤコの背中を押してくれるようなことを言う。そうだった。せっかく、おばーちゃんが用意してくれていた筈なのに。うっかりして外出用の靴を履いて畑にきてしまった。長靴に履きかえに行くと思っただけで、土をこの手で掘り返し、ジャガイモをこの手で握りしめるというイメージがぐっと胸に迫ってきた。
「おばーちゃん、長靴どこ?」とアヤコは玄関口で細い廊下の先にある居間の方に呼びかけたが、全く何の反応がない。「おばーちゃん、長靴どこ?」アヤコは声を一層張り上げてみた。居間の方で誰かが何かを発言したことは分かったが、何を言っているのかはっきりと聞こえない。そもそも、それが、アヤコの呼びかけに対する応答なのかどうかもあやしいところだ。
「おい、アヤコが何か言ってるみたいだぞ」と祖父は冬にはコタツとして使うテーブルに拡げた新聞に目をやりながら、隣で座布団を枕にして寝ころんでいる祖母に話しかけた。祖母は少し頭を動かしたが、天井を見つめているばかりだ。「アヤコがさ、長靴がどこにあるのかだってさ」とキッチン近くのテーブルについている母親が携帯電話をいじりながら祖母に伝えてみたが、祖母は素知らぬ顔のままだ。だからといって祖母が眠り込んでしまいそうだという訳でもなく、返事をするのが面倒で無視しているという訳でもないようだった。(つづく)
【2013/10/07記】

「おいっ、長靴だよ、長靴。アヤコが長靴だってよ!おいっ!だから補聴器つけろって言ってんじゃないか!わざわざ東京まで行って何のために買ってきたんだよ!補聴器つけろ!」祖父が祖母に向かって怒鳴るように声をかけたが、祖母は怪訝な顔をして半身を起こすと「何?」という風に祖父の顔をじっと見る。
「ア・ヤ・コ・ノ・ナ・ガ・グ・ツ」祖父は、一音一音はっきりと区切って発音したが、「だから何?」と祖母。「補聴器をつけろ!お前とは会話にならん!」祖父はまさに匙を投げた感じだ。間近に自分の両親の様子を見てアヤコの母親は、こんなやりとりが何度繰り返されてきたことか、、、と思い、思わず吹き出してしまった。

「おばーちゃん、長靴どこ?」とアヤコはもう一度、居間に向かって声を張り上げてみたが、自分の声は、目の前の廊下や階段や玄関脇にある客間に何の手応えもなく吸い取られていくように感じた。観客のいないコンサート会場の舞台の上から大声で叫んでみたらこんな感じがするかもしれない。いや、どこかの天高く屹立した連峰に登って行って、向こうの方に見える岳々に向かって「ヤッホー!」と言っても木霊が返ってこないとしたらこんな感じかな。この手応えのなさ。完全防音の部屋の中からガラス扉の向こうの人たちに必死で叫びかけてもこっちに全然気付いてくれなかったとしたらどうしたらいいのだろう。
玄関でいくら大声を出したところで無駄という気がしてきたが、だからといって、わざわざ家に上がって居間のドアを開ける気にもならなかった。開けた途端、中にいる奴らが会話をぴたりと止めて、一斉に私の方を見る。そして母親が、まず、あの野太い声をボリューム一杯にして、、、イメージするだけでげんなりする。(つづく)
【2013/10/17記】