弥来成真の世界

瞑想(Meditation)小説。世界の奥へと誘います。

日々の雑感
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ブログ

気高き顔

気高い顔として真っ先に思い浮かぶのは、山羊の顔。天空に屹立する断崖絶壁に平然と佇んでいた。
もう一つは、バッファローの顔。猛吹雪の中、一歩もたじろがず、じっと春の到来を待っていた。
人物の気高さを表現するときは、おそらくこれらをメタファーとして使うことだろう。
どちらもウシ科だってさ。

弥来成真 

モナ・リザ -表情の謎-

レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」の表情がなぜ謎めいて見えるのかについて、様々な仮説や解釈がされてきていますが、先日、美術評論家の中村英樹氏の見解を読んでうなってしまいました。
中村氏によると・・・
「モナ・リザの顔の右半分は右寄り上からの視点で見て描かれ、左半分は正面からの視点で見て描かれている。・・・その右半分と左半分は切れ目なく巧みに接合されていて、そのことはほとんど気づかれない。だだ、画面を見る目の動きが、顔の左右の境界である見えない垂直線を越えるとき、〈無意識的な意識の切り替わり〉が見る人の心中で起こり、それがモナ・リザの表情を謎めいたものにする。」
のだそうです。
なるほど・・・そうであるなら、20世紀の初頭にピカソやブラックが試行錯誤しながら辿り着いたキュビズムというスタイル(様々な視点から見える対象物の姿をひとまとまりに接
合させて描く手法)をダ・ヴィンチは16世紀初頭という遙か昔に、洗練された形で実現してしまっていた!ということになりますよね。。。
というより、ダ・ヴィンチのやったことは、キュビズム云々ということ、いや絵画という領域にとどまらず(中村先生もそのようにご指摘されているという風に理解していますが)、あらゆる芸術に普遍的に通じるものがあると思います。つまり、〈無意識的な意識の切り替わり〉というものが、芸術作品に接する私たちがが感じるその作品の「芸術性」というしかないものの本質を表しているのではないでしょうか。
ダ・ヴィンチすげぇーーーーー。そして中村先生ありがとうございました。

弥来成真 

プラナリアの気持ちと「私」性

プラナリアって知ってますよね?
見た目はナメクジに似ているあの驚異的な再生能力の持ち主です。頭と胴を真っ二つにしても、それれの体の断片から足りない部分を再生してしまう、、、頭だけの欠片からは胴体が、胴体だけの欠片からは頭が再生されて、二体のプラナリアになってしまうというあいつらです。体のどこを何分割してみても、どの肉片からも完全体を生成してしまうというのだから、あっぱれ、あっぱれ。だってさあ、尻尾の先っちょしかないのにそこから胴体と頭まで出来ちゃうだぜ~。
だから、アメーバみたいに体のつくりが単純な原生生物かと思いきや、消化管や脳神経系を備えているっていうんだから、どうにもこうにも。。。おまけに目なんてヒラメみたいに寄り目でパーマンの目のように愛くるしいのだ。やっぱ、すげ~。

一体のプラナリアが切断されて、複数のプラナリアに再生される時って、どういう感覚なのだろうか。
例えば、上から縦に、ていうのは左右に真っ二つに切断された場合はというと、、、

プラナリア「痛っ!うぅ、後頭部から背中にかけて切れ目が・・・ああ、あれか。そういや、この前、仲間が人間にナイフで体をちょん切られていたっけ。俺を切断しようってのか。うぅ、ナイフがどんどん体の中に沈み込んでくる。。。苦しい。(意識が朦朧となっていく)」

(切断完了)

右断片プラナリア「何か、左側がひりひりするぜ。ていうか、左の方がよく見えないんですけど。あれ、右目を閉じると(まぶたあるのか!?)、何も見えない。ていうか、左目がなくなっている!?ていうか体の左側なくなっている!?なんか、物足りない感じがする・・・だんだん、左側の痛みがなくなっていく。あれっ?左の方も前のようによく見えるようになったし、なんだか、昔のような充足した感じになってきたぞ。」

左断片プラナリア「    」:上記の右側くんの「右」と「左」を交互に変換してください(笑)

いや~、左右じゃなくて、上下に頭と胴体に切断していた方がより本質的だったかも。まあいいか。
しかし、どうなのだろうか。こんなんでいいのだろうか?

右側くんは、これから一個の新しい個体として再生し、このさき、切断される以前の体の右側で経験してきた感覚なり、記憶?のみが保持されて生きていくということになるのか。それとも、そもそも記憶は、切断前の体全体に遍在していて、切断前の左側の経験も保持されているのか?
ここで「一個の私であるという感覚を持続している(記憶の保持も含む)」心的状態を「私」性というとする。
どうやら私がプラナリアについて想像したくなったのは、左右に切断されたプラナリアは、どういう「私」性を経験しているのだろうかということに関係しているのだろう。
ここでは、期せずして「意識が朦朧となっていく」という風に誤魔化してしまったようだ。もともとあった一つの「私」性から右の「私」性と左の「私」性の関係はどうなっているのか。いや、どのように「私」性の持続なり断絶なり飛躍なりが体験されているのだろうか。やっぱ、上下切断の胴体部分の感覚(気持ち)を想像するしかないか。。。

尻尾断片プラナリア「何も見えない。。。やたら身が軽くなったが、あれ、なんか食べようにも口がない!?・・・」以下、アホらしくなったのでやめます。
というのも、ここでようやく、尻尾にしてみたところで、断片に分かれた後の世界から出発しているので、何の解決にもならないことに気付いたからです。。。(知らぬ間に脳至上主義者的に考えとったは。いかん、いかん。)
やはり、記憶の持続性というのが、本質的なイシューなのか。。。

あなたは、どう思いますか?

弥来成真 

魂が揺れる

石牟礼道子(いしむれみちこ)さんが「魂ゆらぐ刻を」というエッセイの中で次のように述べておられ,はっとしました。

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   日本語の「考える」という言葉をアイヌ語では、「魂がゆれる」というのだと知りました。魂がゆれるといえば思い当たります。私たちにまだ残っているあの、語らぬ思いや数かぎりない断念です。たぶんこれは近代的な権利意識とは無縁な、表現以前のデリカシーです。それが今も、アイヌの地に魂の安らぐ時があって、人は言葉以前に魂同士、あるいは山川草木と共にゆれあっているというのです。あらためて、病としての文明が、わたしたちの感性を覆っているのに思いあたります。妙な色の、鱗のようなそれを、脱ぎ捨てたい願望と共に。
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石牟礼さんは,小説家特有の感性と洞察力によって「魂がゆれる」という一言からその根源的な形態は,魂同士の会合により魂同士が揺れ合っていることなのだと喝破されている。「考える」ということを巡って,森羅万象に霊魂が宿るというアニミズムを基調とするアイヌ文化の本質に触れることが出来て静かな感動に満たされました。
近代文明にどっぷりと浸かってしまっている私などが考える際には,ついつい,一個の独立した自我という枠組みの中でのみ思いを巡らせてしまいがちなのですが,そんな行為(思考方法)は,「真実」とは無縁の所詮ひとりよがりの知の戯れに過ぎないだろう。
「考える」という営みの本質が魂同士の会合と揺れ合いにあると気付くこと。芭蕉の「松のことは松に習え…」を主題にした前回のエントリーに関連付ければ,「松に習う」とは,松の魂と私の魂が揺れ合うという事態,そのような松との会合という経験をきっかけとして,私がこの世界,存在,時間,生と死についてまさに「考える」ということなのだと思い至りました。
あなたの魂は揺れていますか?

  弥来成真