弥来成真の世界

瞑想(Meditation)小説。世界の奥へと誘います。

宇宙の始まりの残響に耳を澄ませる

宇宙の始まりの残響に耳を澄ませる

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小説を書く、書き続けるというのはつくづく孤独で骨の折れる作業だと思います。たとえ貫通したとしても誰も通らないかもしれないトンネルを人里離れた山奥でそれもたった一人でせっせと到達地点も分からないまま掘っているようなものです。誰に向かって、何に向かって書いているのかも分からないし、たとえ書き上げたところで誰も読んでくれないかもしれない。それで、小説を書いていると「一体こんなことを書いていて何の意味があるのだろうか」と自問してしまい、書き続ける理由が欲しくなってしまい、それでは「書いて意味のあることとは何なのだろう」と考え込んでしまう。挙げ句の果ては「人生の意味とは何だろうか」とか「そもそも、「私たちにとって意味がある」とはどういうことなのであろうか」などという考えの袋小路に陥ってしまう危険に常に曝されています。

しかし、孤独に耐えられずに「人生の意味」とか「存在の意味」とか「美しいとは何か」とかいうような誰にでも共感(共有)できる大きな命題を掲げ、それに対する原理や公式を探そうとすることこそ、そもそも私が実践しようとしている小説的思考とは全く正反対のことだったなのではなかったか?書く理由が欲しいために安易に既存の命題にすがったに過ぎないのではないか?小説家とは既存の大きな意味を掲げる命題に依存することなく、無意味から出発して無意味であることに耐えながら、小さいながらも独自の問いを生み出していかねばならないはずなのだ。そうでなければ、小説家の言葉(=小説)なぞ世の中に蔓延している既存の意味に回収されてしまうのが落ちだ。

では、どうやって無意味から出発して「独自の意味」に向かうことができるのか。私は小説を書きながら思いあぐねて考えの袋小路に陥りそうになると、窓の外の雲をじっと見詰めたり、雨脚にじっと耳を傾けたり、散歩に出て、風に揺れる木々の梢や風に揺らめく池の水面を見詰めたりします。緑が豊富なところにいって目を閉じて静かに深呼吸したりします。そうしていると既存の意味に充たされ、淀んでいた自分の中が空っぽになっていき、敢えて比喩を使っていえば「世界の声が響いてきて」書き進めるべき(掘り進めるべき)感触(以前書いた中原中也のいう「深く感じられている」感じ)をつかむことができます。

いま、「世界の声が響いてくる」と言いましたが、これは単なる比喩でもないな、とも思いました。宇宙物理学の標準的な理論によれば、この宇宙は、とてつもなく高濃密で高温度の1つの点が大爆発することによって誕生し、どんどん膨張し続けるなかであらゆる物質が生成され、それが離合集散を繰り返すことにより様々な銀河が形成され、その中で太陽や地球が、そして地球上に生命が誕生したということになっています。いわゆる「ビッグバン(Big Bang:大爆発、ドッカーン)理論」です。この世界にはあまねく世界が始まった時の大爆発(ドッカーン)の残響があります。この世界の全ての事物に大爆発が残響しているのです。勿論、私たち自身の体にも残響しています。そして全てのものがそれぞれ独自の仕方で残響を発しているのです。空っぽになった私に響いてくる「世界の声」とは、この様々な残響ではないでしょうか。私は「宇宙の始まりの残響に耳を澄ませる」ことによって自らの小説でこの様々な残響を言葉で表現しようとしているのだなと感じました。そうすると何だか勇気が湧いてきます。これからも人里離れた山奥で一人でせっせとトンネルを掘り続けることが出来そうです。

 弥来成真 

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