弥来成真の世界

瞑想(Meditation)小説。世界の奥へと誘います。

エッシャー、歪み、そしてバロック

エッシャー、歪み、そしてバロック

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エッシャーの版画は、「だまし絵」、「不思議な世界」、「不可能な構造」などとよく言われていますが、彼の円熟期の一連の作品を眺めていると不気味な程に特異なリアリティに襲われてしまいます。小説における(時)空間の表現について考えていて、自分の内側に蠢き始めたものがあり、それに促されるかのようにエッシャーの作品集(以前に訪れた「スーパーエッシャー展」Bunkamura ザ・ミュージアムで購入したもの)を見始めて目が離せなくなってしまいました。私はエッシャーの時空間の何にこれほど魅せられているのだろうか。何が私を驚嘆させるのだろうか。

例えば、作品「昼と夜」では、昼と夜とが、上空を飛ぶ鳥と地面の農村地帯(畑)とが、白と黒とが滑らかに共存している。「上と下」では、上から見下ろす視点と下から見上げる視点が接合され、「版画の回廊」においては、ある版画を飾っている画廊の建物がある街並み(外)が実はその版画そのもの(内)に接続している。「物見の塔」では、一階と二階の方形のバルコニーが十字に(垂直に)交差しているはずなのに同一の真っ直ぐな柱で無理なく繋がっている。「上昇と下降」では、屋上の回廊状の階段を上に昇っていく人物が、自分と擦れ違った下に降りていく人物と昇った先で再会するという状況が描かれている。滝が流れ落ちた途端に、落ちた地点が実はこの空間で最も高い位置に反転してしまうという「滝」も同様である。

このような正反対や矛盾した事象の間を繋いでいる(橋渡しをしている)のは、エッシャー空間に潜んでいる歪みや捻れである。柱、屋根、階段、窓枠、回廊、畑、鳥の歪みや捻れが、ありえない連続性をもたらしているのだ。それは決して「だます、だまされる」という次元ではなく、歪みや捻れこそが、それなしには見えないこの世界の実相(森羅万象は繋がって存在しているということ)を見させるということ、或いは、歪みに接することによって我々は世界の連続性(繋がり)という様相に気付かされるということではないだろうか。エッシャーが時空間に潜ませるそういう歪みこそが私を魅せ付け、驚嘆させるのではないだろうか。

エッシャー初期の通常は「だまし絵」に分類されない風景画や肖像画にも歪みや捻れが潜んでいることがわかりますが、その頃からエッシャーは歪みを描くことによって漸く目の前の現実(世界)を表現しえたという感触をつかんでいたのでしょう。

芸術の一様式である「バロック」の語源は、「歪んだ真珠」を意味するポルトガル語のBaroccoという説がありますが、私がバロック的なるものに惹きつけられてきたのもそういうことだったのではないかと思い至りました。そろそろエッシャー作品集を閉じて、小説に戻ろうかと思います。

弥来成真 

 

 

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