弥来成真の世界

瞑想(Meditation)小説。世界の奥へと誘います。

デクノボーの問い

デクノボーの問い

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詩を読んで久しぶりに,ぐっときたので,それも余り知られていない詩だと思いますので,紹介します。
19世紀のロシアの詩人,フョードル・イヴァーノヴィチ・チュッチェフの「プロブレム」(「問い」とでも訳せばいいのだろうか?)と いう詩です。(中平耀『マンデリシュターム読本』から抜粋。ちと文語調?・・・)
 
 山から落ちて石は谷底に横たわった。-
 どのように落ちたのか? 今は知るものとていない-
 みずから頂から落ちたのか,
 それとも思索する手によって投げ落とされたのか?
 何世紀もが疾く過ぎ去った。
 けれどだれひとりこの問いを解いたものはいない。

チュッチェフのことは,全く知りませんでした。例の「文学裁判」のヒーロー,ブロツキーが自らの光源と讃えたマンデリシュタームのことが知りたくて読んでいた『マンデリシュターム読本』に載っていて,偶々知りました。
それはそうとして,この詩の何が,ぐっとさせるのか?

 「谷底にある石は,自ずから落ちたのか,投げ落とされたのか?」

詩の主題は,ある意味余りにも馬鹿げているこの問いである。(まさにタイトルが「問い」だし・・・)
そもそも,これはまともな(意味のある)問いなのだろうか?こんな問いかけは,断じて経済の論理からは出てこない。もちろん科学者の研究テーマになり得ないだろう。こんなことを会社で仕事中に大真面目に問いかけられたら,「はぁ?」となってしまうかもしれない。いや,なるだろう(笑)。実利的な立場からすれば何の役にも立ちはしない,無用で馬鹿馬鹿しい「デクノボーの問い」なのだ。
しかし,谷底にごろんと転がっている石,川のせせらぎ,小鳥の囀り,木の葉のゆらめき,そして風・・・自然の実相に触れ,心が揺れ動いたとき,何とも言えない感慨が湧き起こったとき,こころときめいたとき,人は,その心の有り様を何とか定着しようとして,このような無意味な「デクノボーの問い」を抱いてしまうのではないだろうか?そういう意味で,「デクノボーの問い」として何とも言えない心の有り様を定着させること,「問い」に向かって言葉が振る舞っていることが,言葉の「正しい」使い方だともいえるのではないだろうか。そして,そこにこそ,詩,芸術,人生の本性が潜んでいるのではないだろうか。だからこそ,「デクノボーの問い」を多く抱いていればいるほど,人生は味わい深いものになるものだと確信しています。どのような問いを持って生きているのかが,人生の質を決定しているのだとも思います。私は,様々な「デクノボーの問い」を持った人たちと問いを共有していきたい。
そういったことを直感させてくれたからこそ私はこの詩にぐっときたのかもしれません。もちろん,ここでいうデクノボーは,「雨ニモマケズ」のデクノボーにつながっています。(もっと,考えを整理しなくちゃいけませんが・・・)

追記:チュッチェフについてより詳しく知りたくなり調べてみたら,なんと『フョードル・チュッチェフ研究』(坂庭淳史・著)という潔いタイトルの本(笑)が2007年に出版されているようです。(素晴らしい!)早速,読んでみようと思います。

  弥来成真 

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