弥来成真の世界

瞑想(Meditation)小説。世界の奥へと誘います。

これが手だ(中原中也の教え)

これが手だ(中原中也の教え)

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「『これが手だ』と、『手』という名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい。」

いわずと知れた中原中也「芸術論覚え書」の冒頭の言葉です。

言語芸術としての小説を書くとはどのようなことなのか。それは、言葉(=名辞)で表現し得ないもの(=名辞を口にする前に感じている手)を言葉で表現しようとすること、いや、直接表現出来ないまでもその表現を通じて表現し得ないものを何とか垣間見ようとする不断の努力のことなのだ。いや、こう言ってしまっては私の実感からして硬直的過ぎる。「深く感じられてい」る「その感じ」に手探り状態で言葉をあてがい続けるということ。そうして書き続けているうちに確かに手応えを感じる時が訪れる。その時こそ「その感じ」に言葉によって触れることができた瞬間なのだ。

ここで中也のいう「手」は、「世界」であり、「美」であり、「神」であり、「時間」であり、「宇宙」であり、「生死」であり、あらゆる芸術が追究するべき対象となりうる。

だからいくら巧みに言葉を弄した表現があったとしても、表現者にそもそも深く感じられているその感じがなければ、それは芸術たりえない。それは、絵画、彫刻、音楽その他の芸術でも同じだろう。芸術家の資質とは、どんなことをどれほど深く感じられるのかということだろう。

ところで、中也には「宮澤賢治の世界」という断片があります。それは「宮澤賢治が、もし芸術論を書いたとしたら、述べたでもあらう所の事を(中略)書き付けてみたいと思ふ」というものなのですが、そこで最初に出てくるのが、冒頭に掲げた中也の言葉(微妙な違いはあります)なのです。この事実から中原が芸術のあるべき姿として宮沢賢治の詩を念頭に置いていたであろうことが分かります。

私が小説を書くにあたって拠り所としている中也の言葉をもう一つ。

「此処に家がある。人が若し此の家を見て何等かの驚きをなしたとして、そこで此の家の出来具合を描写するとなら、その描写が如何に微細洩らさず行はれてをれ、それは読む人を退屈させるに違ひない。—– 人が驚けば、その驚きはひきつづき何かを想はす筈だが、そして描写の労を採らせるに然るべき動機はそのひきつづいた想ひであるべきなのだが。」

     弥来成真 

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