弥来成真の世界

瞑想(Meditation)小説。世界の奥へと誘います。

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知性とは

前回、縁起について触れましたが、一見して関係のない物事に繋がりを見出すこと、ちょっと洒落て言えば「不連続な事象間に連続性を発見すること」が、芸術、哲学、科学を問わず知恵や知性の役割だとつくづく思うようになりました。これについては、また今度詳しく書いてみたいと思います。

弥来成真 

庭前柏樹(禅問答)

趙州和尚にある僧が、「達磨大師がはるばるインドからやってこられた意図はなんですか」と尋ね
た。すると趙州は、庭を指さして「あの柏の樹じゃ」(庭前柏樹)と答えられた。
(岩波文庫『無門関』西村恵信訳注より抜粋、一部改変。)

日常「禅問答」といえば訳がわからない言葉のやりとりの比喩としてつかわれていますが、禅僧・無門慧開(1183~1260)の編集した公案集『無門関』に収められているこの問答を何年か前に初めて読んだ時は、さすがに面食らってしまい、禅問答(公案集)とは相手を撹乱するためにどうやって訳のわからないことを言うのかを集めた見本集程度にしか思えませんでした。

とは言うものの単なるデタラメにはない何かひきつけられるものがあり、禅問答とは、私たちに染み付いてしまっている通常の言葉の使い方や論理から私たちを脱け出させるためにあのような無茶苦茶な事を言って揺さぶりをかけ世界と新たな関係を結ぶ(新たな見方が出来るようになる)ことへ導くことが目的なのだろうと次第に考えるようになり、私たちが悟りの境地に達するきっかけを与えてもらえる読み物として接するようになりました。

しかし最近、小説を書いていてこれ以上先に行けない袋小路に迷い込んでしまい、それを何とか乗り越えるきっかけになればと何とはなしに禅関係の本を読んでいてハタと気付きました。仏教の根幹にある世界観は「縁起」だとよく言われます。禅問答においてある問いかけに対して答えるというのは、縁起という智慧の実践であると。縁起とは、この世の全ての事象は、どれ一つとしてそれ自体で独立した実体として存在しているのではなく、時間的にも空間的にもお互いの関係(縁)の中から生起(起)してくるということと理解しています。趙州和尚は、昔々禅の祖師である「達磨大師がインドからやってきたこと」と今ここで自分が「庭の柏の樹を指さしていること」が繋がっていると実感していたのだ。今ここで庭の柏の樹を指さしていることが達磨の西来との縁として起こっていることなのだ。この禅問答の場面では、たまたま目の前に柏の樹があったから「あの柏の樹じゃ」と答えたに過ぎない。もしその時に蝉の声が聞こえてきたとしたら「裏山の蝉の声じゃ」と答えていただろうし、便意をもよおしていたら「道端の糞じゃ」と答えていたかもしれませんよね。深く縁起を分かっているからこそ常識では無茶苦茶に聞こえることも気儘に言い放てるのでしょう。

弥来成真 

これが手だ(中原中也の教え)

「『これが手だ』と、『手』という名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい。」

いわずと知れた中原中也「芸術論覚え書」の冒頭の言葉です。

言語芸術としての小説を書くとはどのようなことなのか。それは、言葉(=名辞)で表現し得ないもの(=名辞を口にする前に感じている手)を言葉で表現しようとすること、いや、直接表現出来ないまでもその表現を通じて表現し得ないものを何とか垣間見ようとする不断の努力のことなのだ。いや、こう言ってしまっては私の実感からして硬直的過ぎる。「深く感じられてい」る「その感じ」に手探り状態で言葉をあてがい続けるということ。そうして書き続けているうちに確かに手応えを感じる時が訪れる。その時こそ「その感じ」に言葉によって触れることができた瞬間なのだ。

ここで中也のいう「手」は、「世界」であり、「美」であり、「神」であり、「時間」であり、「宇宙」であり、「生死」であり、あらゆる芸術が追究するべき対象となりうる。

だからいくら巧みに言葉を弄した表現があったとしても、表現者にそもそも深く感じられているその感じがなければ、それは芸術たりえない。それは、絵画、彫刻、音楽その他の芸術でも同じだろう。芸術家の資質とは、どんなことをどれほど深く感じられるのかということだろう。

ところで、中也には「宮澤賢治の世界」という断片があります。それは「宮澤賢治が、もし芸術論を書いたとしたら、述べたでもあらう所の事を(中略)書き付けてみたいと思ふ」というものなのですが、そこで最初に出てくるのが、冒頭に掲げた中也の言葉(微妙な違いはあります)なのです。この事実から中原が芸術のあるべき姿として宮沢賢治の詩を念頭に置いていたであろうことが分かります。

私が小説を書くにあたって拠り所としている中也の言葉をもう一つ。

「此処に家がある。人が若し此の家を見て何等かの驚きをなしたとして、そこで此の家の出来具合を描写するとなら、その描写が如何に微細洩らさず行はれてをれ、それは読む人を退屈させるに違ひない。—– 人が驚けば、その驚きはひきつづき何かを想はす筈だが、そして描写の労を採らせるに然るべき動機はそのひきつづいた想ひであるべきなのだが。」

     弥来成真